おじさんとかおばさんとか

The HEADLINEの「『価値観のアップデート』と進歩史観」の記事を読んで、「価値観のリバイス」という言い方は確かにいいな、実態に近いなと思った。

それとは別に、記事中に「おじさん批判は許される?」という問いがあり、それを見て思い出したのが、村上龍さんのエッセイシリーズ『すべての男は消耗品である』である。

1987〜91年までTBS系列で放送された「Ryu’s Bar 気ままにいい夜」というテレビ番組があった。村上龍さんがホストとしてゲストを迎え、ぼそぼそとしゃべるトーク番組だ。とある回で桂三枝さんがゲストとして出演した後日、『すべての男は消耗品である』の中で桂三枝さんのことを「心がおばさんだ」と評していて、印象に残っていた。

手元の『すべての男は消耗品である。VOL.1~VOL.13: 1984年8月~2013年9月 連載30周年記念・完全版』で探してみたところ、1988年の「F1を讃美しない男は心がおばさんだ。」にその記述があった。

この前、テレビの『Ryu’s Bar』で桂三枝に、「F1 のどこが面白 いんでっか?」と聞かれた。
で、オレは「とにかく、速くて、音がすごい」と答えた。
すると、桂三枝師匠は、
「だったら、新幹線のガード下におったらよろしいがな」
と言ったのだった。
オレは言葉を失った。
速いものは、みな美しいのである。
それを理解しない男とは、付き合いたくない。

とまあ、名指しで散々な言いようだ。その次の回の「強迫神経症的な、おばさんの定義。」では、タイトルの通りおばさんが定義されていた。

日本は、どうして、おばさん的なものの考え方が、力を持つようになったのだろう。
そもそもおばさんとは何か?
(やれやれ)
おばさんは、安定している。
おばさんは、安住している。
おばさんは、安定化を図る。
おばさんは、他人に頼る。
おばさんは、平均化を好む。
おばさんは、他人の目を気にする。
おばさんは、自己主張をしない。
おばさんは、不労所得が大好きだ。
おばさんには、信念がない。
おばさんは、他人のオルガスムを嫌う。
おばさんは、無限に自分に偽ることができる。
おばさんは、自分を知らない。
おばさんは、必然的に、打算的だ。
おばさんは、オシャレができない。
おばさんには、勇気がないが、持続力はある。
おばさんは、自立していない。
おばさんは、そのことに気付いていない。
おばさんは、他人の自立を邪魔しようとする。
おばさんは、いつでもどこでも大声で喋る。
おばさんは、足が遅い。
おばさんは、何でも、遅い。
おばさんは、行列が好きだ……
当然のことだが、おばさんは、年齢や性別には関係がない。
男のおばさんが増えているのである。
民社党は、おばさんだ。
映画や料理評論家はおばさんだ。
今の日本の詩人はおばさんだ。
だいたい、顔でわかる。

NewsPicksの「さよなら、おっさん。」も同様で、年齢や性別のことじゃないとはいうものの、その言葉が特定の年齢層や性別を指している以上、だったら別の言葉を使ったほうが誤解がないし、よいのでは?とは思う。

それはさておき、かつては「オバタリアン」などという漫画もあったように「おばさん」が揶揄される対象だったのが、最近は「働かないおじさん」「子供部屋おじさん」「キモくて金のないおっさん」などといってもっぱら「おじさん」が揶揄されるようになってきたのには、どういう社会環境の変化が影響しているのか気になるところだ。