『攻殻機動隊 SAC_2045 最後の人間』を観た

先日の日曜日にMOVIX亀有で『攻殻機動隊 SAC_2045 最後の人間』を観た。

Netflixでやってたのは観たので、内容的には特に何もという感じ。

自分が慣れてないだけなんだろうけど、まだ3DCGは「サンダーバード」みたいって思っちゃって没入できない。ダイナミックで速い動きのあるアクションシーンは面白いけど、普通のシーンは人形劇を観ているよう。あとポストヒューマンの動きがシンプルに滑稽過ぎて我に帰ってしまう。

そのぶん声優の身体性が際立って味わい深くなるのはよいと思う。

KANさんが逝ってしまった

音楽家のKANさんの訃報が流れた。2023年11月12日に亡くなったとのことだった。

3月だったか、がんを公表されて以降たまに思い出しては心配していたが、元気にみんなの前に戻ってくると思っていたので、「え」という虚を突かれたような気持ち。

中学時代、STVラジオの「アタックヤング」という番組で土曜日のパーソナリティーを担当していたのがKANさんだった。だから最初に聴いた曲が何だったかと言われると、ちょっと覚えがない。毎週月曜になって学校に行ったら、友人たちと週末のアタヤンの話をした。

「愛は勝つ」がヒットして、テレビによく出演するようになってたころは見るたびになぜか勝手に面映ゆいような、居ずまいのよろしくないような気持ちになっていた。

高校、大学と進んで周りにKANさんを聴く人はいなくなったけど、アルバムは必ず買っていた。ライブに行ったのは社会人になってからだいぶたってから。一度しか行けなかったのを悔やむ。

一番好きな曲は「秋、多摩川にて」。歌い出しの「水辺低く飛ぶ鳥と」のところの旋律で情景が浮かぶ。バンドをやっている友人に聴かせたら「相当ひねくれてますね」と言った。たぶん合ってる。自分にとっては「これぞKANさん」という感じがする曲。

KANさんと、KANさんの音楽との出会いに感謝しつつ、ご冥福をお祈りします。

それにしても、SNSでいろんな方が言及していて「人徳」ってすごいものだなと思う。

おじさんとかおばさんとか

The HEADLINEの「『価値観のアップデート』と進歩史観」の記事を読んで、「価値観のリバイス」という言い方は確かにいいな、実態に近いなと思った。

それとは別に、記事中に「おじさん批判は許される?」という問いがあり、それを見て思い出したのが、村上龍さんのエッセイシリーズ『すべての男は消耗品である』である。

1987〜91年までTBS系列で放送された「Ryu’s Bar 気ままにいい夜」というテレビ番組があった。村上龍さんがホストとしてゲストを迎え、ぼそぼそとしゃべるトーク番組だ。とある回で桂三枝さんがゲストとして出演した後日、『すべての男は消耗品である』の中で桂三枝さんのことを「心がおばさんだ」と評していて、印象に残っていた。

手元の『すべての男は消耗品である。VOL.1~VOL.13: 1984年8月~2013年9月 連載30周年記念・完全版』で探してみたところ、1988年の「F1を讃美しない男は心がおばさんだ。」にその記述があった。

この前、テレビの『Ryu’s Bar』で桂三枝に、「F1 のどこが面白 いんでっか?」と聞かれた。
で、オレは「とにかく、速くて、音がすごい」と答えた。
すると、桂三枝師匠は、
「だったら、新幹線のガード下におったらよろしいがな」
と言ったのだった。
オレは言葉を失った。
速いものは、みな美しいのである。
それを理解しない男とは、付き合いたくない。

とまあ、名指しで散々な言いようだ。その次の回の「強迫神経症的な、おばさんの定義。」では、タイトルの通りおばさんが定義されていた。

日本は、どうして、おばさん的なものの考え方が、力を持つようになったのだろう。
そもそもおばさんとは何か?
(やれやれ)
おばさんは、安定している。
おばさんは、安住している。
おばさんは、安定化を図る。
おばさんは、他人に頼る。
おばさんは、平均化を好む。
おばさんは、他人の目を気にする。
おばさんは、自己主張をしない。
おばさんは、不労所得が大好きだ。
おばさんには、信念がない。
おばさんは、他人のオルガスムを嫌う。
おばさんは、無限に自分に偽ることができる。
おばさんは、自分を知らない。
おばさんは、必然的に、打算的だ。
おばさんは、オシャレができない。
おばさんには、勇気がないが、持続力はある。
おばさんは、自立していない。
おばさんは、そのことに気付いていない。
おばさんは、他人の自立を邪魔しようとする。
おばさんは、いつでもどこでも大声で喋る。
おばさんは、足が遅い。
おばさんは、何でも、遅い。
おばさんは、行列が好きだ……
当然のことだが、おばさんは、年齢や性別には関係がない。
男のおばさんが増えているのである。
民社党は、おばさんだ。
映画や料理評論家はおばさんだ。
今の日本の詩人はおばさんだ。
だいたい、顔でわかる。

NewsPicksの「さよなら、おっさん。」も同様で、年齢や性別のことじゃないとはいうものの、その言葉が特定の年齢層や性別を指している以上、だったら別の言葉を使ったほうが誤解がないし、よいのでは?とは思う。

それはさておき、かつては「オバタリアン」などという漫画もあったように「おばさん」が揶揄される対象だったのが、最近は「働かないおじさん」「子供部屋おじさん」「キモくて金のないおっさん」などといってもっぱら「おじさん」が揶揄されるようになってきたのには、どういう社会環境の変化が影響しているのか気になるところだ。

DOS/Vブルース

<Facebookでブックカバーチャレンジが回ってきてしまったので1冊だけアップした。少し手直しして残しておく次第。>

鮎川誠の著作、『DOS/Vブルース』(1997年/幻冬舎刊)。もちろんシーナ&ザ・ロケッツの、である。学生援護会『Salida』のCMで「職業選択の自由 アハハン」とやっていたあのシナロケの(←この本とはあまり関係ない)だ。

最初はコンピューターを「ロック・スピリット」からほど遠いと感じていた彼が、ウィルコ・ジョンソンなど海外のミュージシャン仲間に感化されてパソコン(IBM Aptiva 730)を購入し、プロバイダーに申し込んでインターネットに接続し、Win95をインストールし、rokkets.com のドメインを取得してバンドのホームページを立ち上げるまでを事細かに、例の独特の語り口で記してある。

驚くのは、1948年生まれの鮎川誠が95年当時、友人やショップのアドバイスをもらいはしながらも「自分で」PCを選び、ネット環境をセットアップし、HTMLを手書きして、画像の加工・軽量化などの作業までもしていたことだ。

ファイル操作につまずく、文字を打つのにもつまずく、何をするにもとにかくつまずく。その度に、少しずつ使い方を覚えることを楽しんでいる。昔のコンピューター、インターネットはいろいろ自分でやらなきゃならないことが多くて面倒くさかったけど、それ以上に楽しかった気持ちをノスタルジックに思い出させてくれる。

自分の手でサイトをリリースした後、本当に他の人からもアクセスできるのか信じられず、親友に「そっちからも本当に見えているか確かめてほしい」と電話したエピソードや、サイト訪問者との直のコミュニケーションを楽しんでいる様子がたいへんほほ笑ましい。「ロックが好きならみんな仲間」で、パソコンでも何でも使って世界中のロックを楽しみたい、そんな気持ちが溢れている。

コンピュータについて、いろいろなことを知っていくにしたがって、コンピュータとロックって、正反対のように見えて、実はなかなかたくさんの共通点があることが分かってきた。

コンピュータの世界は、なんでも自分で決めて動かなければ何も始まらない。ひとつのキーを叩くのも、すべて自分の意志から始まる。そして、返ってくる答えは、イエスかノー、そのどちらかしかない。中間の曖昧な返事なんてない。

何をやりたいのか自分で決断して、そのためには何をやらないといけないのか、自分の選択にかかってくる。それってロック・スピリットそのものだ。だから今では、とても相性のいい友達みたいな存在に感じられる。今やPCは、僕の大切なロックの仲間だ。そして、ロックの好きな人たちにコンピュータをロックの仲間として、こいつはたいしたロックンロール・マシーンだぜと、紹介したいと思っているんだ。(第1章冒頭より)

この時つくった「ロケットウェブ」はそれからずっと、シーナがいなくなった後も、ローンチ当時の原型を残したまま運営されている(よってスマホでは見づらい)。

シーナ&ロケッツ・オフィシャル・ウェブサイト a.k.a. ロケットウェブ

DOS/Vブルース(単行本)

DOS/Vブルース(文庫)

ところで…

後日Twitterで、この『DOS/Vブルース』は山川健一さんの『マッキントッシュ・ハイ』とセットなのだと教わった。知らなかった。。そしてこちらは電子書籍化している!

マッキントッシュ・ハイ(Kindle版)

幻冬舎さん、『DOS/Vブルース』も電子書籍化の程、何とぞよろしくお願い申し上げます。

ポジティブ思考のネガティブな側面

流行っているらしいブックカバーチャレンジとはまったく関係ないのだが、こんな時だからポジティブ思考を無意識に求めたのか、本棚から久しぶりに『少女パレアナ』を手に取った。買ったのは中学生の時だったか、高校生の時だったか…。奥付には昭和61年の改版再販発行と書いてある。たぶん手元にある本で最も古いものだ。

『少女パレアナ』はアメリカの小説家エレナ・ホグマン・ポーターの作品で、1913年に週刊誌で連載されていたものらしい。1913年というと日本は大正2年、“戦前”どころか第一次世界大戦前だ。この本の村岡花子訳も1930年のもので、昔読んだ時でさえずいぶん古くさい感じはしたのだが、それがかえって時代を感じさせて、気に入っていた。

この作品は当時のアメリカで大ヒットしたらしく、ディズニーが実写映画化したり、時代を下って日本でも『愛少女ポリアンナ物語』としてアニメ化された。この文庫本の表紙もそのアニメからのものだ。

孤児となったパレアナは気難しい叔母さんに引き取られたが、どんな事からでも喜ぶことを捜し出す「何でも喜ぶ」ゲームで、その頑な心を溶かしてゆく。やがてその遊びは町全体に広がり人々の心を明るくした。全篇につつまれている強い希望と温い心は1913年にこの本が出されてから今も尚、多くの読者に読み継がれている。

本のそでに書かれている要約を紹介した。

この本を後生大事に持っているくらいだから、好きな作品だし、大切にしているし、多少は自分の考え方にも影響を与えていると思う。

物語の中のパレアナは、後ろ向きの考えの人、文句ばっかり言っている人を責めないし、「ポジティブであれ」などと説教もしない。父親とどんな時でも続けるよう約束した「よかった探し」(「何でも喜ぶ」ゲームのこと)をひたすら続ける。それが自然と周りを感化していく。その辺りをとても気に入っている。

ちなみにこのパレアナの名前は「パレアナ症候群」という心的疾患の名前の由来にもなっている。Wikipediaによると、パレアナ症候群は現実逃避の一種で、楽天主義の負の側面を表すもの。「直面した問題の中に含まれる(微細な)良い部分だけを見て自己満足し、問題の解決にいたらないこと」「常に現状より悪い状況を想定して、そうなっていないことに満足し、上を見ようとしないこと」などを指す。

この言葉が現在の精神医学でどの程度確かで、広く共有された言葉・概念なのかは分からないが、今、COVID-19と対峙する状況でむやみに「ポジティブ思考」を促される時に思い出したいことではあると思う。

小説にはそういう話は出てこなくて、普通に面白いのでよかったらぜひ読んでみてください。今は新訳や子供向けのものも出ているようなので、お子さんのいる方にもお勧めです。

新訳 少女ポリアンナ(角川文庫)

10歳までに読みたい世界名作17 少女ポリアンナ