ポジティブな思考のネガティブな側面

流行っているらしいブックカバーチャレンジとはまったく関係ないのだが、こんな時だからポジティブ思考を無意識に求めたのか、本棚から久しぶりに『少女パレアナ』を手に取った。買ったのは中学生の時だったか、高校生の時だったか…。奥付には昭和61年の改版再販発行と書いてある。たぶん手元にある本で最も古いものだ。

『少女パレアナ』はアメリカの小説家エレナ・ホグマン・ポーターの作品で、1913年に週刊誌で連載されていたものらしい。1913年というと日本は大正2年、“戦前”どころか第一次世界大戦前だ。この本の村岡花子訳も1930年のもので、昔読んだ時でさえずいぶん古くさい感じはしたのだが、それがかえって時代を感じさせて、気に入っていた。

この作品は当時のアメリカで大ヒットしたらしく、ディズニーが実写映画化したり、時代を下って日本でも『愛少女ポリアンナ物語』としてアニメ化された。この文庫本の表紙もそのアニメからのものだ。

孤児となったパレアナは気難しい叔母さんに引き取られたが、どんな事からでも喜ぶことを捜し出す「何でも喜ぶ」ゲームで、その頑な心を溶かしてゆく。やがてその遊びは町全体に広がり人々の心を明るくした。全篇につつまれている強い希望と温い心は1913年にこの本が出されてから今も尚、多くの読者に読み継がれている。

本のそでに書かれている要約を紹介した。

この本を後生大事に持っているくらいだから、好きな作品だし、大切にしているし、多少は自分の考え方にも影響を与えていると思う。

物語の中のパレアナは、後ろ向きの考えの人、文句ばっかり言っている人を責めないし、「ポジティブであれ」などと説教もしない。父親とどんな時でも続けるよう約束した「よかった探し」(「何でも喜ぶ」ゲームのこと)をひたすら続ける。それが自然と周りを感化していく。その辺りをとても気に入っている。

ちなみにこのパレアナの名前は「パレアナ症候群」という心的疾患の名前の由来にもなっている。Wikipediaによると、パレアナ症候群は現実逃避の一種で、楽天主義の負の側面を表すもの。「直面した問題の中に含まれる(微細な)良い部分だけを見て自己満足し、問題の解決にいたらないこと」「常に現状より悪い状況を想定して、そうなっていないことに満足し、上を見ようとしないこと」などを指す。

この言葉が現在の精神医学でどの程度確かで、広く共有された言葉・概念なのかは分からないが、今、COVID-19と対峙する状況でむやみに「ポジティブ思考」を促される時に思い出したいことではあると思う。

小説にはそういう話は出てこなくて、普通に面白いのでよかったらぜひ読んでみてください。今は新訳や子供向けのものも出ているようなので、お子さんのいる方にもお勧めです。

新訳 少女ポリアンナ(角川文庫)

10歳までに読みたい世界名作17 少女ポリアンナ

ライブドキュメンタリー映画『Let’s Play Two』を観た後のメモ


新宿ピカデリーでPearl Jamのライブドキュメンタリー「Let’s Play Two」が上映されたので観に行ってきた。

「Let’s Play Two」は「2試合やろうぜ」の意味で、シカゴ出身で根っからのカブスファンであるEddie Vedderが、元カブスで殿堂入りのメジャーリーガーであるErnie Banksの声掛けによってつくった応援歌「All The Way」の歌詞の一節のようだ。


この作品は、2016年8月にシカゴ・カブスのホームスタジアムであるリグレー・フィールドで行われたライブを収録したものであり、映画作品というよりはミュージックビデオを映画館でも上映した、という感じだ。

そんなわけで、ストーリーらしきストーリーがあるわけでもないのだが、Eddie Vedderの地元としてのシカゴやカブスの本拠地でライブを行うことへの思いと、108年ぶりにワールドチャンピオンに輝いた2016年シーズンのカブスの軌跡を重ねながら映像は進む。

私がわりと熱心にPearl Jamを聴いていたのはアルバムでいうと「Yield」辺りまでで、それ以降は知らなかったし、Eddie Vedderがシカゴ出身であることも知らなかった。メジャー・リーグは観ないしどこが優勝したかなど気にはしていなかったので、ふつうにドキドキ新鮮な気持ちで楽しめた。

映像はステージからスタジアムのせり上がった観客席を見渡したり見上げたりしたカットも多く、迫力があった。映画館なのでしっかり爆音だし。BD買ってしまうかもしれない。

若い頃あんなに暴れん坊だったEddieが、少年みたいでかわいかった。

以下、「Let’s play two」関連の公式Youtube動画。

映画『Graphic Means』を観た後のメモ

「Graphic Means: A History of Graphic Design Production」という映画の上映会があり、行ってきた。

1950年代の、活字を一文字ずつ箱に詰めて版を組んで印刷していたころから、90年代にDTPが登場して、製版前のすべてがコンピューターで扱える「情報」になった時代までのデザイン・印刷テクノロジーの変遷をたどるドキュメンタリー。

自分は大学を出たあとは就職せず、某印刷会社の中でアルバイトをしていた。映画には、その頃自分がやっていたような作業の様子や、使っていた仕事道具たち──ペーパーセメント、それを薄めたり剥がしたりするソルベント(溶解液)のディスペンサー、雲形定規、ロットリングのペンなどが出てきて、懐しくいろいろ思い出した。

印刷会社でバイトしてたのは1997年。自分が主にやっていたのは雑誌の版下作成だった。写植オペレーターさんが写植を打ってくれた印画紙をブロックごとにカッターで切り、割付(出版社からのレイアウト指示)の通りに台紙に貼り付けていく仕事。

(自分の記憶と空間把握のセンスが確かなら)バスケのコートを3つ4つ取れるくらいのかなり大きなフロアに、写植オペレーターさん、エアブラシ屋さん、キリヌキ屋さん、そして版下屋さんがいた。

ある時、何かの話の流れで社員さんに自分が大卒だということを話したことがあって、「なんでこんな所にいるの?」と笑われた。そういう職場。でもみんなで作業着を着て、黙々と「図工」の時間みたいな作業をするところが、いかにも"モノ"をつくってる工場という感じがして好きだった。

そんな印刷会社のバイトも、1年足らずで辞めた。最後の日、フロア内を挨拶して回った時、前に大卒の自分を笑った社員さんは「二度と来るなよ、こんな所」と送り出してくれた。

その後、今度は出版社にアルバイトで入社した。数年後にその会社で社員になり、研修としてかつてのバイト先だった印刷会社を訪れることになった。

「一緒に働いていた社員さんに会えるかな」などと少し期待していたのだけど、自分が働いていたフロアに行ったらライトテーブルはきれいさっぱりなくなって、知っている人は誰一人いない。代わりにデスクトップパソコンが「これでもか」ってくらいに並んでいた。

一瞬、「ただ場所が変わっただけかもしれない」とも思ったけれど、その後にキリヌキ作業をしている人たちの部屋につれて行かれたら、キリヌキもPCでやっていた。

自分がバイトしていた頃にカッターでキリヌキをやっていたおばちゃんたちは、おそらくPCを使えなかったと思う。

写植オペレータさんは、DTPを学んで写植機からPCに道具を変えて仕事を続けたかもしれない。続けなかった人もいるかもしれない。自分と一緒に版下をつくっていた人たちは元気だろうか。何をしているだろうか。

エロ本のぼかし入れ作業をたまに見せてくれたエアブラシ担当のMさんだけは、タイミング的にたぶん無事定年を迎えたはずだ。

今のAIが人の仕事を奪うの奪わないのという文脈でいうと、たぶんAIなんかのテクノロジーが人の仕事を奪うのは思ったよりも一瞬で、気づいた時にはたいがい遅く、ごっそりと人間の仕事を奪っていくんじゃないかなと、そんなことを思った。

その時には代わりにこれまでになかったような新しい仕事が生まれる、という説があるけれども、全員がきれいにそちらへスイッチするのは難しいだろう。